19921218

考えていることをつらつら書きます。

下駄とベルボトム

裸がエロいのは何故かについて一日中考えていた。

授業の課題で、明治期に書かれた裸体画に関する

論評を読まなくてはならなくて、

どうせだからすこし考え事をすることにした。

 

論評の趣旨を要約すると、次のようになる。

日本では、近年まで混浴が続いてきたことなど、

日本社会は古来裸体を悦ぶとは言わないまでも

忌み嫌う対象ではないという風潮のもとにあったにも関わらず、

春画や仏像などを例外とすれば、裸体を描いた絵画や彫刻は少ない。

一方、欧米諸国では公共の場で身体を露出することがタブーとされる一方で

裸体画・裸体彫刻が非常に多い。この欧米諸国におけるある種の「矛盾」は、

古代ギリシアの人々が、顔貌のみでなくその身体を含め人間の美とした

「事実上の」慣習と、欧州の美術の源流が古代ギリシア彫刻にあり、

芸術家が裸体彫刻の模造模写によってその技能を磨き、

そもそも人物像の基礎は骨格や筋肉組織の描写にあるという

「技術上の」慣習によるものである。

しかし、この慣習は国内には存在せず、

やはり裸体を呈露することは恥ずべきものであり、

仮に技術習得のために裸体画を描くにしても描いたのちに

被服させれば問題ない。

 

注目すべきは、欧米諸国と明治期の日本の裸体の捉え方の違い。

欧米においては、性的なものとみなされる裸体が芸術として切り取られたとき、

裸体からは性的性格が失われる。

現代日本社会に生きる私たちの考え方も、たぶん同じだ。

高校の校庭にひっそりとたたずむ裸婦像に勃起する男がいるとしたら

ちょっとした病気だと思う。

(あったら教えてください)

 

一方、近代日本においては、裸体や、裸体まではいかなくとも

異性の肌は、日常においてありふれた見慣れたものだった。

しかし、裸体が切り取られ、あらためて芸術として提示されたとき

裸体には性的性格が付与された。

 

裸がエロい理由

 

ぱっと思いつくのは二つ。でも二つとも腑に落ちない。

 

1.普段隠されているから

2.セックスとの結びつき

 

1に関しては、西欧美術の例をみれば

違和感を感じていただけるだろう。

普段厳重にかくされている裸が

あっぴろげに書かれても、私たちは

それをエロいとは感じない。

 

2に関しては、少し面白い事象を取り上げることができるかと思う。

世の中にはナチュラリストと呼ばれる人々がいる。

かつては、ヌーディストとよばれていた人々だ。

彼らは、裸で生活している。彼らは、ほかのナチュラリスト

の裸をみて勃起したりはしない。

むしろ、着衣状態の女性に性的興奮を覚えることもあるらしい。

 

これらの事例をみていると、

裸がエロいというのはひとつの偏見にすぎなくて

身体そのものにはエロスがないのではないか、

なんて

思ったりもする。

 

おっぱいはエロい

性器はエロい

 

そう思い込んでるだけだとしたら、

セックスなんて

はなはだ滑稽だ。

 

 

ここで思い出したのは、一時期よく面倒をみてくれていた

学者のおじさんとのとあるカフェでの会話だった。

そのおじさんは若いころ

髪をのばし、ベルボトムデニムに下駄をはいていたらしい。

そのころは、それが最高にクールだったんだ、と彼は言った。

裸がエロいこともたいしてかわらないと思った。

 

もともと私の興味は

モノクロ-ムの身体写真にあった。

 

細江英公の「抱擁」や、ロバートメイプルソープ

映画だと、007のカジノロワイヤル(あやふや)

アランレネの二十四時間の情事の冒頭部

 

モノクロフィルムで撮られた身体は

たしかに身体で

それ以外の何物でもない

でもそこから一切のエロスが消えていた。

 

メイプルソープは、黒人の男性器を撮っていた。

それと同時に、花を撮っていた。

 

よくよく考えたら

花は植物の性器だった。

 

花の名前のつく女性は、ざっくりいえば

みんなまんこって名前なんだ。

じゃあ、

わたしも

まんこ

ってことに

なるのか。

 

 

 

均質空間

世界の果てがあるとするならば

それは自分の中にあると思う

 

世界の中心があるとするならば

それは自分だと思う

 

 

ゴールデンウィーク

葉山の海を見にいってきます。

 

課題いっぱいで日帰りしかできないけれど

海をみて

ぐちゃぐちゃに絡んでしまった

糸を

一本一本

ほぐすことができたらなぁと

おもってます。

 

ブログは

存在しない恋人に対して

手紙を書いているみたいで

楽しいです。

 

友理子ブログ書きなよって

昔言ってくれた

とある男の子に

感謝しています。

 

幻影

好きな男がいる。

その男には、顔が無くて、

わかっているのは

彼の身長が178センチメートルということだけ。

 

初めて会ったのは、二年前、

ただただ白いだけの空間で、

彼と私は二人並んで歩いていた。

会話を交わすこともなく、

ただただひたすら終わりの見えない道を

二人で歩いていた。

二人の距離は30センチメートル。

彼の手と私の手は時折触れ合い、

彼の体温が空気を伝わってくる。

手をつなぐのかつながないのか

もどかしくてもどかしくて

でも、手をつなげないことが

幸せで仕方なかった。

 

そして、一か月前、彼は再び私の前に姿を現した。

彼と私は灰色の海にいた。

その日は曇りで、時折吹く風は生温くて、

肌にまとわりついてくる。

景色が色を失う中で、砂浜のみがその色を残していた。

彼と私は、裾をまくり、海のほうへと歩き出した。

生暖かい風とは対照的に、

海はつめたかった。

太陽は消えていた。光が消えていた。色が消えていた。

荒廃した景色の中で、

私と彼は、温度だけを感じ取っていた。

 

 

彼は何者であろうか、次はいつ会えるのであろうか。

 

私は彼に恋をしている。

 

中とダクトの話

いつのころからか、中村はオレンジだった。

中村だけじゃない。中野さんも竹中さんも中井さんも中林さんも、

そして、中央改札も中央大学もオレンジだった。

中という漢字そのものがオレンジなわけではない。

中がほかの漢字と組み合わされたとき、私の頭のなかはオレンジになる。

別に小学校のとき同じクラスだった中林さんや中村さんがオレンジをいつも身に着けてたという記憶もない。

でも、小学校のころから確かに中村はオレンジだったのだ。

いったいなぜ私の頭のなかの配線は狂ってしまったのだろうか。

中村という漢字を見ただけで、ナカムラという音を聞いただけでオレンジが浮かんでくるのが普通ではないことは明らかだ。

中だけではない。那と沼は紫、新は赤なのである。

視覚的にその漢字に色がついて見えるわけはないが、たしかに頭のなかには色がある。

 

人間の頭の中は無数のダクトが絡み合う一つの都市である。

きっと私の都市のダクトには、ダクトを食べる性質の悪い鼠が住んでいて、

ダクトに穴をあけているに違いない。つながるはずのないダクトの間を空気が通り抜けているに違いない。

最近、頭の中を縦横無尽に駆け巡る鼠のかげがチカチカして煩わしい。

少し疲れているみたいだ。

 

 

春夢

豊饒の海を読んでいたら、文章が書きたくなった。


日常のなかで様々な緑が目について、そろそろ五月がくることを思い出した。春が終わりを迎える。

世間の人は花見に出掛けて春を楽しんでいたそうだが、私は桜があまり好きではないし、第一花見に誘われることもないから、家の布団の中で春を感じることにしている。


桜は、自分の美しさを知っている。そして自分が美しさを失っていくことも知っている。自分が一番美しい時に、その美しさをまざまざと人々に見せつけ、したり顔。冬になって老いてくると、景色の中にその身をひっそりと隠す。その姿は、女そのものだ。


本題に戻そう。

私の春は夢である。

鼻の奥をツンと突く花の芳香と薄紅色の霧の漂う中に横たわる。

このような春夢の情景は、目覚めるほどに薄れていく。儚い。

この儚さと春のイメージの重なりはやはり花に依る処が大きいのだろうか。散るという運命を受け入れているからこそ花は美しいのだろうか。


白居易の詩に次のようなものがある。

花非花 霧非霧 

夜半來 天明去 

來如春夢幾多時 

去似朝雲無覓處


恋情はまるで春夢のように儚く、そして実体のないものである。


私も春の季節にまかせて、在るか無いかも分からぬ恋情に浸っている。

恋は儚いものであって、散る運命にあるからこそ美しい。永遠の恋など有り得ないのである。


17歳の時、父の勧めで、「春の雪」を読んで以来、私の中で春は儚い恋情と巡りめぐる生のはじまりである。


今日も夢の中に春を見る。


そんなことを考えながら、私は部屋の電気を消した。