19921218

考えていることをつらつら書きます。

春夢

豊饒の海を読んでいたら、文章が書きたくなった。


日常のなかで様々な緑が目について、そろそろ五月がくることを思い出した。春が終わりを迎える。

世間の人は花見に出掛けて春を楽しんでいたそうだが、私は桜があまり好きではないし、第一花見に誘われることもないから、家の布団の中で春を感じることにしている。


桜は、自分の美しさを知っている。そして自分が美しさを失っていくことも知っている。自分が一番美しい時に、その美しさをまざまざと人々に見せつけ、したり顔。冬になって老いてくると、景色の中にその身をひっそりと隠す。その姿は、女そのものだ。


本題に戻そう。

私の春は夢である。

鼻の奥をツンと突く花の芳香と薄紅色の霧の漂う中に横たわる。

このような春夢の情景は、目覚めるほどに薄れていく。儚い。

この儚さと春のイメージの重なりはやはり花に依る処が大きいのだろうか。散るという運命を受け入れているからこそ花は美しいのだろうか。


白居易の詩に次のようなものがある。

花非花 霧非霧 

夜半來 天明去 

來如春夢幾多時 

去似朝雲無覓處


恋情はまるで春夢のように儚く、そして実体のないものである。


私も春の季節にまかせて、在るか無いかも分からぬ恋情に浸っている。

恋は儚いものであって、散る運命にあるからこそ美しい。永遠の恋など有り得ないのである。


17歳の時、父の勧めで、「春の雪」を読んで以来、私の中で春は儚い恋情と巡りめぐる生のはじまりである。


今日も夢の中に春を見る。


そんなことを考えながら、私は部屋の電気を消した。