春夢
豊饒の海を読んでいたら、文章が書きたくなった。
日常のなかで様々な緑が目について、そろそろ五月がくることを思い出した。春が終わりを迎える。
世間の人は花見に出掛けて春を楽しんでいたそうだが、私は桜があまり好きではないし、第一花見に誘われることもないから、家の布団の中で春を感じることにしている。
桜は、自分の美しさを知っている。そして自分が美しさを失っていくことも知っている。自分が一番美しい時に、その美しさをまざまざと人々に見せつけ、したり顔。冬になって老いてくると、景色の中にその身をひっそりと隠す。その姿は、女そのものだ。
本題に戻そう。
私の春は夢である。
鼻の奥をツンと突く花の芳香と薄紅色の霧の漂う中に横たわる。
このような春夢の情景は、目覚めるほどに薄れていく。儚い。
この儚さと春のイメージの重なりはやはり花に依る処が大きいのだろうか。散るという運命を受け入れているからこそ花は美しいのだろうか。
白居易の詩に次のようなものがある。
花非花 霧非霧
夜半來 天明去
來如春夢幾多時
去似朝雲無覓處
恋情はまるで春夢のように儚く、そして実体のないものである。
私も春の季節にまかせて、在るか無いかも分からぬ恋情に浸っている。
恋は儚いものであって、散る運命にあるからこそ美しい。永遠の恋など有り得ないのである。
17歳の時、父の勧めで、「春の雪」を読んで以来、私の中で春は儚い恋情と巡りめぐる生のはじまりである。
今日も夢の中に春を見る。
そんなことを考えながら、私は部屋の電気を消した。